たまさんって、どんな人?
1971年(昭和46年)福島市生まれ。人生のほとんどを仙台で過ごした。東北学院榴ヶ岡高校卒業。同校の先輩は「ジョジョの奇妙な冒険」の作者・荒木飛呂彦さん、民族派右翼「一水会」の元最高顧問・鈴木邦男さんなど。仙台三高の受験に失敗した(?)ちょっと変な人達(たまさん含む)が集まる私立の学校でした。
学校の成績はまあまあでしたが、いろいろ壁にもブチ当たり、順調な学校生活とは言えなかったように思います。高校2年生の時、今のようにインターネットが普及していなかった時代に、新聞記者を目指す全国の高校生とネットワークを作って東京で集合したり、高校3年生の夏休みに思い立って自転車で東京まで放浪の旅に出かけちゃったり。悶々として「今やらないと、あとは出来ないかも・・・」と思うと、ついヤッちゃうAB型です(笑) その時に育んだ友情は今も続いています。
たまさんの子供時代は、周りの大人達によるとても良いサポートに巡り会えました。初めてパソコンに触れたのは小学6年生の時で、興味を持った時、父親が用意してくれました。無線通信に興味を持った時、機材を含めて知識を提供してくれたのは、15歳も年上の”友人”でした。社会や政治の仕組みに興味を持った時、学ぶ機会を与えてくれたのは、大学生や30代・40代の人たちでした。徐々に関係が薄れても、その人達が蓄積していた知識を、今はインターネットで追跡することが出来ます。「つながりを作ること、つながりを維持すること」を、肌で教えてくれた人たちです。
東京に5年住んで学校を卒業し映像制作の仕事を始めました。放送作家、番組制作、調査報道などいろいろやりました。当時はバブルが弾けたばかりで、いわゆる「華やかなギョーカイ」には縁がありませんでした。テレビのロケ先で深夜に業務が終了すると「宅送費」が支給されました。バブル華やかなりし学生アルバイトの頃は、1万円札をぽんと渡されてタクシーで帰宅していましたが、卒業する頃には、次々とテレビプロダクションが倒産する憂き目に遭いました。
仕事といえば、前任者が撮るだけ撮って放置した番組を一から作り直したり、予算の関係で制作を続行できなくなった仕事の後始末的なものを専門的に請け負うようになりました。パチンコ経験がほとんどないのに某スポーツ紙と一緒にパチンコのリーチ目を狙うビデオを作ったり、編集途中のアダルトビデオを仕上げたり。決め手に欠ける報道番組で、ちょっと危ない突撃取材をしたり。つらいこともあり、日の目を見ない作品な多かったのですが、「あいつに頼めば、多少無茶でも仕上げてくれる」ということになり、徐々に、レギュラー番組ではない季節の変わり目の特別番組に携わるようになりました。しかし、収入にも仕事のハードさにも波があり、徐々に心身を追い詰めて行くことに・・・
1995年、仙台に戻り、愛する人と一緒に住み始めました。同棲ってヤツです。好きな人と山あり谷あり、毎日いろんなことがあって楽しかったので、そのような関係を大切にしたかったのですが、迫られて(?)結婚することになりました。社会がコンピューター2000年問題に戦々恐々としていた頃、2000年1月1日に婚姻届を出しました。
その頃から少しずつ、テレビの仕事からインターネットの仕事に移り変わっていきました。今では何の役にも立たない「ドットコムマスター」なんかも頑張って取得しましたが、主に、電子掲示板を地域コミュニティに利用する方法を日々模索し、地域サイトの運営に注力していました。企画が認められて宮城県からITベンチャーとして助成金をもらったこともありましたが、そちらは花開かず。当時、模索していた仕組みが、今の時代のブログシステムそのものでした。
(続きは後で書く)