生きづらさの源

社会の仕組みが複雑になって、あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ・・・ 身近にある典型的な「ふりまわされ例」は、例えば、お財布の中のポイントカードではないでしょうか。「ポイントカードありますかー」と、大して貯まらないのに、カードがないと貯まらない。あまり行かない店でも、カードを持っていないと貯まらない。いつまでもお財布を占領して、ポイントが100円くらい、ということも多いですね。

スマホにしても同じこと。特に学校では「他の人が持っているから」「LINEしたいから」「ツイッターもやらないと皆についていけない」。次々とスキルが要求されます。そして疲れて行きます。そこで求めているものが見つかれば良いのですが、果てしない宝探しのようになり、やがてそれなしでは生きていけないような感覚になり、人と人のリアルな距離感がつかめなくなると、人間関係に温度差ができてきてしまいます。

本当は、そんなツールに頼らなくても、身近に誰かがいるはずなのに、「大勢の人に、いいね!すごいね!」ってポチッとして欲しい、いわゆる「かまってちゃん」や「承認欲求」がムクムクと頭をもたげ、「もっと!もっと!」と要求がエスカレートすると、突拍子もない言動で耳目を集めようとして、極端な行動に出てしまう人がいます。例えば、YouTubeに投稿されたいたずら動画は、警察官に近付いてポケットから「白い粉」の入った小さな袋を落として慌てて逃走。「白い粉」の正体は、塩だったので無罪放免。警察官が必死に追いかけてくる様子を遠くから撮影。いたずらを仕掛けた人が軽犯罪法で「本当に」検挙されるという顛末になりました。

人は、犯罪を犯す瞬間、悪さをしているという意識から遠のくことがあります。ある種の現実逃避があったり、強い自己否定からの脱却だったりすることもあります。

上記のいたずらの例は極端ではありますが、自分を知ってほしい、注目して欲しい(注目獲得行動)という意識の裏側には、「物心がつく前」のできごとが根深く関係していることがあります。

わかりやすさのために、ごく一般的な例で紹介すると、親からの全面的な保育が必要だった幼いころに話は遡ります。

人は、あらゆる動物の中でも極端に未熟な状況で生まれてきます。海で生まれる魚の大半は、すぐ荒波に向けて泳ぎ出します。生まれたばかりの子鹿が、ものの数十分で立ち上がり、自力で歩いて行く姿をみたことがあるでしょうか。人の赤ちゃんとは比べ物にならないくらい、自立や巣立ちのタイミングはとても早いです。

人の赤ちゃんは、お母さんからミルクをもらい、おしめを替えてもらい、あやしてもらい、寝かしつけて貰う必要があります。そして何年もの間、親が運んできた食事に頼ります。

赤ちゃんが泣いていたら、あなたはどうするでしょうか。どうしたのかなと様子を見に行き、抱き上げたり、おなかがすいたのかな、ウンチでおしめが気持ち悪いのかなと、何かを気遣うことでしょう。

しかし、さびしくて泣いても誰も来てくれなかった、おなかがすいているのにしばらく耐えなければならなかった、ずっとおむつが気持ち悪いままだった・・・そんなことが何度も続くと、赤ちゃんも「絶望的」に感じてしまいます。

学童となっても、テストで良い点をとったのに褒めてくれなかった、マラソン大会で上位入賞したのに関心を持たれなかった、友だちを連れてきても快く迎え入れてもらえなかった、などなど、総じて親の「無関心」が、子の存在意義や自己肯定感を低くしてしまいます。ほとんどの場合で親には悪気がありません。気がつかないか、気がつくことに関心がないのです。

あるいは、仕事や家事が忙しくて充分に親子の接触が持てなかったとか、親がテレビに夢中になっていたとか、テレビに子育てをさせていた、なんていうこともあるでしょう。

抱っこして欲しい時、誰もしてくれなかった。
お腹が空いた時、誰も食べさせてくれなかった。
褒めて欲しい時、誰も褒めてくれなかった。
そして、いま思えば
叱って欲しい時、誰も叱ったくれなかった。
さらには、
背中を押して欲しい時、押してくれなかった。
止めて欲しい時、止めてくれなかった・・・・

「私はさびしくて、苦しんで、一人で頑張っていたのに」

という被害感が自分の中に醸成されて行き、ついには「私だけ、どうして?」「私は誰からも見向きされない」「それは私がかわいくない、かっこよくないからではないか」という強迫的な思いが募ります。

そんな生き方の癖が、生きづらい感情を招いてしまいます。当の親には、「私もそうして育てられてきたから」という弁解がありますので、決して「ネグレクトした」という気持ちがないことがほとんどです。

しかし、子が問題行動を起こすようになると、子が物心つく前の功罪について考えなくてはならなくなる時が、遅かれ早かれ、親と子のどちらかに訪れます。多くの場合、子が反発することで問題が表面化しますが、子が「私自身に問題があるのではないか」と、怒りを封じ込めて良い子を振る舞うことがあると回復までの道のりが少し遠くなることがあります。

皆、同じように裸で生まれてくるのに、成長していく過程で、様々な家族の柵(しがらみ)に物足りなさを感じて、そのさびしさやつらさを「絶対の愛」に求めることがままあります。

実際には、それを他人から与えられることはなく、小さな好意を与えられても気が付かなかったりします。「絶対!」が必要だと感じているから、周囲の声や忠告、気遣いが物足りなくて、厚意に感じません。そうすると「あの人には何を言ってもダメだよ。感情がない人だし」と良くない評価をされてしまいます。壊れ行く人間関係がさらに生きづらさを増長させてしまうと、当然、体調にも影響が出てきます。そうすると、眠れなくなり、食べられなくなり、家から出たくなくなり、世の中の人がすべて敵に見えたりと、極端な考えに苛まれてしまうのです。

実は、眠れないというよりも「眠るより何か自分にできることがあるんじゃないか」と目が爛々としてきます。「俺は正義に満ちて、悪と戦う!」という「中二病」のような現象も、同じ背景があるのかもしれません。しかし、戦うべき「悪」の姿はなかなか見えません。自我の形成とともに物事の善悪が分かってくるのと違って、自分が決めつけてしまった「悪」や、思い込んでしまった「悪」のイメージを追い求めても、他人には見えない(見えにくい)ものであるため、様々な誤解を受けるようにもなってしまいます。

では、どうすれば良いのでしょうか。

就学前後の子に、夜、ママのおっぱいをさわりながら寝たり、哺乳瓶でジュースを飲みたがる子がいたります。そんな時は否定せずに肯定して、さわらせてあげてほしいし、哺乳瓶でジュースを飲ませてあげてほしいものです。本人にとっては大事な問題なのです。無意識でも、それを思い出して満たされたいと思った時に、満たされて生まれ変わることはとても重要なプロセスになります。そのようなサインは、とても貴重なことでもあります。

そうして、子は、ひとつひとつを乗り越えて、達成感と満足感を味わって次のフィールドへ自分の意志で進みたいと考えています。

大人になると、もうそのような経験は恥ずかしくてできないかもしれませんが、もしパートナーにそのような理解があれば、頭をなでてくれたり、だっこしてくれたり、哺乳瓶でジュースやミルクを飲ませてくれるかも知れません。

完全なもの、絶対なものを求め続けても、相手がいる以上、余程の理解と協力がなければ、それを追い求めることすら疲れてしまいます。私たちは「相手の感情をゆらしたくなる」ものです。

しかし、そこに完璧さを求めて頑張れば頑張るほど、得られないつらさと、得るための行動に疲弊してしまい、「死にたい」という気持ちになってしまうのです。

その「死にたい」気持ちは、いつになったらなくなるのか。

これは経験的なもので、自分が欲していた「絶対の愛」「完璧の愛」を他人に施すことが早道なのではないかと考えます。一生懸命に与えるのだけれども、なかなか相手に伝わらないことを感じた時、自分もまた絶対や完璧ではないことを徐々に知り、穏やかさ、優しさ、居心地の良さを体験して行くことで、安心感を増し、日常の小さな幸せを嬉しく感じられるようになります。

「絶対に」とは言いませんが、絶対0ではなく絶対100でもない、心地よく気持ちが揺れ動いたり、完璧ではないものに愛着を寄せたり、それを「補完」して行く楽しさを感じて行くことは、きっと誰にでもできるはずです。

そして、生きづらさを抱えた人々は、決して何かの能力に劣っているということはありません。むしろ能力が高いゆえに、それを喜んでもらえなかった、さらに高めてくれる人がいなかった、ということであって、そうした「高める」接し方をしてくれる人との関係性を、本来は望んでいるのではないでしょうか。

なかなか欲しいものは簡単に手に入らないものだ、与えようと思っても難しいのだから、そう考えて、誰かを高慢に責め続けることは、さらに生きづらさを強めてしまいます。

気がつくことはなかなか難しいものですが、誰かと励まし合いながら、閉塞感、焦燥感、絶望とイライラをひとつひとつ「解除」して行くことは、憧れのアイドル歌手と結ばれることよりもはるかに手軽なものです。一人では気が付きにくいかもしれません。けれども、「それでも良いから」と門戸を開けて待っていてくれる人は、案外すぐ近くにいたりするものです。

気がついてみてくださいね。

たまさんに何かを話してくれる時は、どうぞゆっくり時間をかけてください。初めはプライドのために誤魔化しがあったり、回想の邪魔をすることもあるでしょう。あなた一人ではないです。そうやって乗り越えて、生まれ変わって、心地よい関係を探すことができるのが人間の特権です。

心に着ている強靭な鎧を、ひとつひとつ脱いでいきましょう。