DV相談から見えてくること

「私はDVの被害者で、夫からあんなことされて、こんなことされて・・・」と言う相談は日常茶飯事のことです。どうぞどうぞ、たくさん話してください。つらい思いをしてきたことは事実です。たまさんが、ゆっくりとあなたのお話を聞きましょう。

ほとんどが女性からの相談ですが、男性からの相談も少なくありません。

「私は妻から包丁を突きつけられて、死んでやる!と日々脅されています。子供の目の前で、です。なにか面白くないことがあると、ちゃぶ台返しは日常茶飯事で、この前はテレビのリモコンを投げつけられました」

今や、DVは日本の日常になってしまったかのような気持ちになります。

数限りない相談を俯瞰してみると、どうやら日本のDVと言うのは、「被害者」か「加害者」とレッテルと貼らないと気がすまないようです。

お話を聞いていると、「夫からこんなことをされたから、こうやり返した」とか「DVは女性が受けるものであって、女性からのDVはありえない」と論じる方もいます。ネットサーフィンをして硬直的な情報サイトを斜め読みして、ガチガチに理論武装しているのも相談者の特徴です。「だから、私は被害者であって、何も悪くないんだ」と思っているようですし、その言葉をたまさんに言わせようという誘導的なお涙も拝見します。

あ、そういうことで、たまさんは動じませんからね。

「DVを受けました」と言いながら報復もしていて、被害者であり、加害者であるのです。そして、加害者になっていることに気が付かないばかりか、武勇伝のようになってしまっています。そして、被害者であるから何を(報復)しても許されると思っている方も見受けられます。

言葉が独り歩きして、「DV」と聞いただけで、さも凄惨な現場を想像してしまいますが、警察が関与すべき刑法に触れるようなケースは、むしろ稀です。それなのに、旧態依然とした女性相談所や福祉相談員が「警察にも相談を」とソーシャルスキル無く、たらい回しにするため、「聞き入れてもらうため」に話が針小棒大となり、被害者のはずが、いつの間にか加害者になって行くようです。

これは、官僚たちが現場を知らないことだけでは済まされなくなります。仮に誇張した相談事実であったとしても、公的機関の書類として残ると、それが「末恐ろしい事実」として独り歩きし、役所は「もう片方の当事者の意見を聞こう」などとは思いませんし、そのような制度も日本にはありません。そのため、日本国内で起きているDVのほとんどは、日本独自のDVである可能性が否定できません。

「そんなこと言ったって、叩かれたんです!」
「包丁を突きつけられたんです!」

命にかかわることは、まず警察に一報を。メモでも手紙でも、なんでもいいですが、「こういうことがあった」と誰かに知らせておくことは重要で、なおかつ・・・

って、おいおい。じゃあ、どうしてたまさんちに相談に来たんですか?

ちょっと書ききれないけど、DV!DV!って騒ぐ人ほど、加害者にもなってるし、被害者にもなっているからね。男性→女性 だけとも限らないし。

大切なのは、加害者にならないことはもちろん「被害者にならない」ことです。

ひとり親?

最近、子供の貧困をめぐるニュースで「ひとり親家庭」という言葉をよく見聞きするようになりました。市役所などに置いてあるリーフレットなどにも同じ言葉を見かけます。

この言葉を巡り、地方議会などで議論がかわされているので、たまさんの考えを書いておこうと思います。従前は「母子家庭」という言葉がよく使われてきましたが、どうやら「父子家庭」が増えてきたこともあってか、それでは具合が悪いということになったのか。父か母のどちらかがいない家庭という意味で「ひとり親」と呼ばれているようですが、問題提起している人たちの考えは「もう片方の親は、まったく無関係なのか?」ということです。

死別して、もう関わることができないのならともかく、離婚や別居であっても、戸籍の中にも親がいる場合、「ひとり親」という表現はふさわしくありません。関わりを持ちたいと思っている親がいるとすれば、その言葉は重たく、すべてを否定されているような気持ちになりますし、両親が存命しているのに、子どもの意志とは無関係に「ひとり親」というレッテルが貼られます。「親」という言葉が混じっている以上、これは否定できない事実です。

この言葉ができた時代背景には、離婚や別居で子供と離れてしまったら、もう子育てには関わらないという、日本独自の文化があるようです。津軽地域ではさらに顕著なことです。

子どもの都合ではなく、親の都合で、両親が一緒に暮らせないのに、片方の親と子の関わりが否定されるのは日本だけです。そこに追い打ちをかけるように「ひとり親」というレッテルを貼り、子どもはそこから逃れることができません。

よく、「子は親を選べない」と言いますが、子は親を選べないだけでなく、親が別居や離婚をするかしないか、という選択肢を自分で選ぶことができません。

ここ2〜3年の間、急速に母子家庭の貧困に関するニュースが増えましたが、子どもの貧困は、そのような「子ども不在」の中で醸成されて行きます。

もう一人いるはずの親は、どこで何をしているのでしょうか。それすらも把握せずに「ひとり親」と締めくくってしまうことは、とても悲しいことです。大人は子どもに何も言い訳ができないはずです。子どもには何も責任はなく、自分ごとで結婚生活の失敗を招いたのですから。

子どもの貧困は、親の貧困であることに間違いはありませんが、親の貧困は「発想の貧困」であり、コミュニケーションの貧困でもあります。

もし本当に一緒に暮らす子どものことを考えるのならば、「もうひとりの親」と、どう関わって行くか。真剣に考える必要があります。「私が嫌だから」と言う理由で、子どもが重荷を背負っていることから、目を背けることは、育児放棄と変わらないのではないでしょうか。

引き離された親たちの怒りの受け皿

「面会交流について相談したいんですが。依頼者が”面会交流で息子を殺めたい”と言っていて、対応に苦慮しています。そういう場合、貴君はどうしていらっしゃるのでしょうか」って、そんな面会交流、無理して取り次ぐ必要もないと思うけど・・・

ブログやSNSで毒を吐きつつ、すっかり復讐心にまみれてしまって抜け出せない方はたくさんいる。子どもを盗まれて許せない!子どもを虐待している母親を許せない!って、いっぱいいっぱいになっている。たいがい、その後は子どもと会えなくなるケースがとても多い。

実際にその人と会ってみると”実行方法”とやらが非常にあやふやで、時折、怒りに満ちて話がどんどんずれて行く。それでも、まあ、一連の出来事だからと受け止めて、全体の話を俯瞰する。

「そういう気持ちだということをわかってほしい」と着地点が見つかってくる。

ちょっとずつ心を開いてくれて、だんだん分かってくるのは、ああ、この人は、思っているだけでなんもしてこなかった人なんだなぁということ。

「母親が虐待しているとして、それでどうしたんです?」
「いえ、なにも。どこにも相談していません」

「警察には相談に行ったことはあるんですか?」
「行っても無駄だと、ネット上にたくさん記事があって」

「子どもに手紙をかいたことはありますか?」
「書いても無駄だと、○○さんが言ってまして」

おいおい、自分の子供のことでしょ。

常に「誰かさんのせいで何も進まないし、できない」という話しぶり。そのくせ「毎日ひまです。死にたい」。自分でできること、あきらめてるんじゃないか。

あきらめているのは他の誰でもないでしょ。

ネット情報にかぶれて意気消沈する気持ちはワカラナイではないけれど、それを何年も続けていると、できないこと・何もしないことへの免罪符みたいになってしまう。その切替の悪さが事情を複雑にしているのではないかと、自分のことを振り返ってみてもよく分かる。

アレだ、ネットサーフィンはいわばドクターショッピングと同じで、都合の良い情報だけを取捨選択してしまう。んなもん、結局、俺は何の役にも立たなかったように感じる。

それと、気が付かないうちに、相当、奥さんの動向や子供の態度のひとつひとつに依存して、反応してしまうのだ。案外、俺なんかも、妻も子どもも別の人間で、別の考えを持っているということが、なんだか怖かったような気もする。

こっちもそういう考えだったから、奥さんも同じように「子供と同化」しちゃったような気もする。ちょっと乱暴だけど、「子どものことが心配です(信頼していません)」「会わせてください、お願いします(期待してます)」ってのは、ぜんぜん相手に響かないことが多いので、多少”誇張”してでも、

「大変だろうけど、あなたに任せるからね(信頼してますから)」
「こっちは好きなようにやらせていただきますね(期待しないから、こっちにも期待しないでね)」と放ったほうが、不思議と同居親の気持ちは動くようである。

こっちが変われば、あっちも変わる(と自分も相手も信頼する)。

もちろん、すべてそのようなケースではないのだけれど、それぐらい「軽く」伝えないと、ただでさえ「重い同居親」はかなり重たくなってしまうようで、なかなか興味深い。

ちなみに、子どもを連れ去った妻(または夫)を「やっつけてやりたい!」と思っている人々が、合理的にやっつけられる方法をコンプリートできた人はいなかった。だんだん「無駄なことだ」と気がついてくれて、いつの間にか、その話は立ち消えた。そうなるまで、お付き合いする他ない。ただ、いつまでも怒りが収まらない方とは良い関係を結べないので、正直、俺も切りたくなる。

夫婦問題は、どっちも加害者になったり被害者になったり、行ったり来たり。最終的には、そのどっちにもならないよ!という心構えができると良いのだろう。ムズカシイけど。(少なくとも今の法制下ではそれしか無い)

それと、なんとかしてあげたいからと、別居親に感情移入しすぎると、冒頭のような妙な問合せになるんだろう。支援する側も強いメンタル持ってないとね、流される。

例えば、面会交流の場面で、別居親が子どもの前で泣き出してしまったとして、支援する側も一緒に泣いてしまうと、子供の不安は2倍にも3倍にもなってしまう。やはり、面会交流支援は、子どもベースの子ども目線で、私情は大人の対応で控えめにしたほうが良いね。

the Tanukinoyu Hot spring

青森市内の下湯ダムの近くにあるタヌキの湯の体験レポートです。
このたび、英語字幕付きで再編集しました。

To all the travelers.
In my AIRBNB, I can guide this hot spring. Hakkoda, about 5 hours, including Sukayu hotspring tour. The price is 10,000 JPY. Various credit cards can be used.

タヌキの湯についてはガイドできます。
約5時間コース、10,000円です
酸ヶ湯温泉に立ち寄ることもできます。

カード払いに対応しました

2018年2月より、農業体験民宿にお泊りのみんな様は下記のクレジットカードをご利用になれるようになりました。

中国からのお客様の増加に伴い、銀聯カード(ユニオンペイ)にも対応しています。もちろん現金払いもOKです。

”今日もニコニコ現金払い。金の貸し借りは友を失う” たまさん

 

メディアへの圧力

アエラの記事や現代ビジネスのネット記事がリンク切れになった件。

俺もこの騒動は言論弾圧だと思うし、訴訟をチラつかせて記事を引っ込めさせた(チラつかされて記事を引っ込めた)のは、どうなん?と思うけれども、出版社ではとある”猛烈な抗議”を受けて、その対処に苦慮しているそうなので、ちょっと提言させて頂きたいです。

まずは、親子問題・親権問題・子どもの連れ去り・虚偽DVという難しいテーマを取り上げてくれた出版社と記者に感謝の気持ちを表したいところです。記者は慎重に立場と言葉を選んで記事にし、出版社は幾度も会議を重ねて、この企画に取り組んだはずです。

しかし、出版社に罵詈雑言を浴びせるような抗議電話をしている人がいて、今後このような企画や新たな出版が危ぶまれているのも事実です。

抗議した人は悪気もなく、満面の正義感づらで意気揚々と電話をしたかもしれないけど、それが何になります?

 記事はいったんネットから引っ込められたものの、構成をやり直して再掲されることもありえる話。出版社は今後の企画を続けるかどうかについて検討していた。

そこに”抗議”の電話がしつこく入り「こんなにひどい言葉を浴びせられるのなら、もうこの手の企画はやめましょう」って状況になってんの。それって相手のスラップ訴訟と同じくらいのことやってんのよね。本人は気づかないだろうけど。

1,もう一度読みたい!
2,後編も楽しみ!
3,応援してる!企画を続けて欲しい!
4,自分も似たような経験がある。私のことも取材して!
5,良記事を書いた記者によろしく伝えて!

・・・とかまあ、そのくらいにしておいてはどう?

“猛抗議”がどんな結末を迎えるかというと、記者が個人的に責任を負わされて、出版社が二度とその記者に「書かせなくなる」ことにもなりかねない。ただでさえ複雑な事情を大衆向けに分かりやすく伝える努力をしてくれているのに、それが水の泡になりそう。

「記事が不正に削除されるのはけしからん!」とばかりに「そんな出版社なら買った雑誌を送り返してやる!」と出版社へ八つ当たりしても、そのしわ寄せが記者に跳ね返って行くだけかも知れない・・・ということを想像してみて欲しいんだわ。電話の向こうにも俺たちと同じ人間がいるわけでさ。

ってかよ、もう出版社の中の人はぶっちゃけ「ああ、別居親ってめんどくさいですね!」って思ってんだわ。
自分の気に入らないからって、正義づらして出版社をケチョンケチョンにやっつけたところで、消えた記事が復活すると思うの?

購読者の権利とか、説明責任とか、問い合わせる権利とか、少し休み休み言ったほうが良くない? 相手の気持ちを察せられない正しさだけの単細胞が企画そのものをダメにする破壊力を持ってる。相手は変えられないんだから。雑誌は買うか買わないかだけ。

いい加減、その破壊力に気がついて〜 (´∀`)

アダルトチルドレンと言う言葉の誤用

ええと、いろいろなお話をお聞きするうちに「私はアダルトチルドレンなんでしょうか」とか「友達から、あなたはアダルトチルドレンみたいだね」と言われたというお話に接することがあります。結論から言うと、アダルトチルドレンとは他人からレッテルを貼られるような言葉ではありませんし、医学用語でもありません。

アダルトチルドレンと言う言葉が日本に入ってきたのは、1990年頃からです。アメリカの精神科医が書いた本を日本の精神科医の齋藤学(さいとうさとる)さんが日本語の本に訳して以来、日本国内に広まったようです。その後、やはり精神科医の信田さよ子さんが「アダルトチルドレン完全理解」と言う本を出されています。これらの本を読めばよく分かるのですが、アダルトチルドレンとは、そう「自覚」するかどうかということがポイントで、他人からどうこう言われることではないということです。

 

そして「子どもみたいな大人」という表現も誤用です。これらはメディアの人々が誤解して伝えていることもあるんでしょう。あらためて、アダルトチルドレンとはどういう事かというと・・・

幼少期に親の顔色を見ながら生活し、意に反した生き方を(直接・間接問わず)強いられ、(結果的に)親から受け入れられず、悲しみを抱いたまま手放せない状態が続き、大人になっても、心の奥底で泣き続けているために、大人になってから、生きているのがなんだかつらい! そんな状況を理解するための助けとなる「自覚」です。生きにくい感覚がないのであれば、無理に自覚する必要はないし、「私は違うかな」と思えば、それで良いのだと思います。

人は多かれ少なかれ「親に理解されなかった」という経験があります。その体験が元で人間関係が上手くいかなくなることがあります。例えば、いつも親から怒鳴られて育った人は、社会に出ても「また怒鳴られるのではないか」と恐れて大事なことを言えなかったり、話し合いを避けてしまうことがあります。しかし、幼少期は、話し合いを避けることで自分が傷つかないようにしてきたり、「自分さえ我慢していれば、パパとママはケンカしたりしない」と背負い込むことで、なんとか「生き延びて」来たという言い方もできます。

衝突を避けてきたり、納得行かないことを背負い込んでしまって、そう生きざるを得なかった人のことを「サバイバー」と言います。そうした苦難や困難を、なにか別のことがきっかけで「水に流す」ことができると良いのですが、自分が最初に接した大人である親の言うこと・やることは、ある意味「絶対的」ですから、子どもは親の言うなりに従わざるを得なかったり、そこから逃れようがないという状況で生き続けなければなりませんでしたので、満たされなかった気持ちが心の奥底に深い傷となって残ってしまうことがあります。

社会に出て、親と同じような話し方を聞くだけで、身構えてしまったり、苦しくなってしまったりして、体調不良になることもあります。そのような「身体症状」が出て、「あれ?なんかおかしいな」と気がつくのです。アパートを借りて一人暮らしを始めたのに「あれ?私は自由に生きていない。やりたい!と思ったことでも、何かが邪魔をしている」と感じ始めて、自分自身の心にモヤモヤしたものがあることに気が付きます。

なんとなく自分が変だということに気が付きますが、たいがいの場合、身体症状があっても何らかの病が見つかることはありません。精神科や心療内科に行ってみても、それほど深刻な状況ではないことが分かり、ソーシャルワーカーや心理カウンセラーのところで、「アダルトチルドレンじゃないかしらね」と言われてホッとします。自分は何らかの病気ではなかったという安堵感と、ずっと心の奥底に秘めていたものがあったんだ、という気づきによってホッとするのです。

アダルトチルドレンとは、「大人になっても、心の奥底で泣いている幼いころの私」という感じだと思います。だから、他人は与り知らないことだし、誰かから「あんたはアダルトチルドレンだ!」と言われる筋合いにはないし、「私はアダルトチルドレンです」と表明するものでもないのではないかと思います。それ故に「自覚」があるかどうか、ということがポイントです。

全国各地にアダルトチルドレンが集まる「自助グループ」というものがあります。そこで、心の中に秘めていた自分のことについて、各々体験を語ります。自助グループでは、名前を名乗る必要がなく「アノニマス(無名であること)」が重視されます。いま大人の自分と、さびしい気持ちを味わって心のなかでまだ泣いている子どもの自分。それらを分けるという配慮もあるのでしょう。

だんだんと、その「自覚」が大きくなり、たくさんのことを思い出します。時には、悔しかった子供の頃の自分と一緒になって怒り狂うこともあるでしょう。そうして少しずつ、子どもの頃の自分を慰め、励まし、手を離して行きます。それが自助グループで体験できることのひとつです。それなので、インナーチャイルド(心の中の泣いている子供時代の自分)がいつの間にか成長し、「もう私は成長したよ! 泣いていないよ!」という日が来るかも知れません。その日がいつくるのか、あるいはもう来てしまったのか、自分自身でもはっきりとわからないものです。というわけで、繰り返しになりますが、アダルトチルドレンという言葉は、誰かから定義付け・レッテル貼りされるものではありません。

2018年 春の桜開花予想

旅人の皆さん、たまさんちの近くの桜は4月下旬ごろが見頃なようです。

All the travelers, the cherry blossoms in Aomori Prefecture where I live is in the middle of late April. My house is in Hirakawa city. It is 13 minutes by train from Hirosaki. We are waiting for guests from all over the world this year too!

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Japan’s cherry blossom viewing may come early this year, says weather forecasting firm

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#AIRBNB #Sakura #cherry blossom #hirosaki #hirakawa #aomori

 

我が家のデブオウムガイは今日もラブラブ💕

みーちゃった💕

今日もデブオウムガイ同士ラブラブだわ💕

あんたら熱いかもしれないけど、戸を閉めてくれないと部屋は冷えるのよね (´∀`)