引き離された親たちの怒りの受け皿

「面会交流について相談したいんですが。依頼者が”面会交流で息子を殺めたい”と言っていて、対応に苦慮しています。そういう場合、貴君はどうしていらっしゃるのでしょうか」って、そんな面会交流、無理して取り次ぐ必要もないと思うけど・・・

ブログやSNSで毒を吐きつつ、すっかり復讐心にまみれてしまって抜け出せない方はたくさんいる。子どもを盗まれて許せない!子どもを虐待している母親を許せない!って、いっぱいいっぱいになっている。たいがい、その後は子どもと会えなくなるケースがとても多い。

実際にその人と会ってみると”実行方法”とやらが非常にあやふやで、時折、怒りに満ちて話がどんどんずれて行く。それでも、まあ、一連の出来事だからと受け止めて、全体の話を俯瞰する。

「そういう気持ちだということをわかってほしい」と着地点が見つかってくる。

ちょっとずつ心を開いてくれて、だんだん分かってくるのは、ああ、この人は、思っているだけでなんもしてこなかった人なんだなぁということ。

「母親が虐待しているとして、それでどうしたんです?」
「いえ、なにも。どこにも相談していません」

「警察には相談に行ったことはあるんですか?」
「行っても無駄だと、ネット上にたくさん記事があって」

「子どもに手紙をかいたことはありますか?」
「書いても無駄だと、○○さんが言ってまして」

おいおい、自分の子供のことでしょ。

常に「誰かさんのせいで何も進まないし、できない」という話しぶり。そのくせ「毎日ひまです。死にたい」。自分でできること、あきらめてるんじゃないか。

あきらめているのは他の誰でもないでしょ。

ネット情報にかぶれて意気消沈する気持ちはワカラナイではないけれど、それを何年も続けていると、できないこと・何もしないことへの免罪符みたいになってしまう。その切替の悪さが事情を複雑にしているのではないかと、自分のことを振り返ってみてもよく分かる。

アレだ、ネットサーフィンはいわばドクターショッピングと同じで、都合の良い情報だけを取捨選択してしまう。んなもん、結局、俺は何の役にも立たなかったように感じる。

それと、気が付かないうちに、相当、奥さんの動向や子供の態度のひとつひとつに依存して、反応してしまうのだ。案外、俺なんかも、妻も子どもも別の人間で、別の考えを持っているということが、なんだか怖かったような気もする。

こっちもそういう考えだったから、奥さんも同じように「子供と同化」しちゃったような気もする。ちょっと乱暴だけど、「子どものことが心配です(信頼していません)」「会わせてください、お願いします(期待してます)」ってのは、ぜんぜん相手に響かないことが多いので、多少”誇張”してでも、

「大変だろうけど、あなたに任せるからね(信頼してますから)」
「こっちは好きなようにやらせていただきますね(期待しないから、こっちにも期待しないでね)」と放ったほうが、不思議と同居親の気持ちは動くようである。

こっちが変われば、あっちも変わる(と自分も相手も信頼する)。

もちろん、すべてそのようなケースではないのだけれど、それぐらい「軽く」伝えないと、ただでさえ「重い同居親」はかなり重たくなってしまうようで、なかなか興味深い。

ちなみに、子どもを連れ去った妻(または夫)を「やっつけてやりたい!」と思っている人々が、合理的にやっつけられる方法をコンプリートできた人はいなかった。だんだん「無駄なことだ」と気がついてくれて、いつの間にか、その話は立ち消えた。そうなるまで、お付き合いする他ない。ただ、いつまでも怒りが収まらない方とは良い関係を結べないので、正直、俺も切りたくなる。

夫婦問題は、どっちも加害者になったり被害者になったり、行ったり来たり。最終的には、そのどっちにもならないよ!という心構えができると良いのだろう。ムズカシイけど。(少なくとも今の法制下ではそれしか無い)

それと、なんとかしてあげたいからと、別居親に感情移入しすぎると、冒頭のような妙な問合せになるんだろう。支援する側も強いメンタル持ってないとね、流される。

例えば、面会交流の場面で、別居親が子どもの前で泣き出してしまったとして、支援する側も一緒に泣いてしまうと、子供の不安は2倍にも3倍にもなってしまう。やはり、面会交流支援は、子どもベースの子ども目線で、私情は大人の対応で控えめにしたほうが良いね。