みーちゃん、母親になる

昨年(2017年)の6月6日、ぬこのひたい農園 に突如現れた仔猫のみーちゃん。9月末にパートナーのひーくんをお迎えして、さらに半年が経ちました。そして3月14日、ふたりの間に仔猫が生まれました。ひーくんを里子に出してくれた弘前のオネイサンにもお伝えしたところ、とても喜んでくれました。たまさんが平川に住み始め仙台から住民票を移したのがちょうど5年前のことでした。

夕方の5時くらいから、ざわざわし始めたみーちゃんは、約3時間半をかけて、5匹の仔猫を産みました。

みーちゃんは、生まれてすぐに育児放棄されてしまった猫なので、いろいろと気にかかることもありましたが、一匹生まれてはズリ出て来る胎盤をむしゃむしゃと食べて栄養をつけ、しっかり子どもたちを守っています。

 

お笑い内閣府

なんかおかしいと思いませんか?  セックスではなくてレイプの間違いですよね。

内閣府の印象操作とはかくも悪辣です。こんな政府なんですね。男女共同参画と言う言葉もすごく聞こえが良いですが、実態は性の否定です。危険な「思想」と言っても良いでしょう。

甘え上手になりませんか

「ええ、あの、いいです、いいです」

他人の厚意を、つい断ってしまう。上手に甘えられない、というちょっともったいない方のお話です。

「こんな人に甘えたくない!」という変な意地やプライドもあるのでしょう。それに、甘い誘惑を仕掛けてきて何かを要求されるのではないか?という警戒感もありますね。そうした小さな「裏切り」を経験していると、甘えられない、甘えたくない、甘えようと思わない・・・となることがよくあると思います。

ただ、せっかく親しくなった関係なのに、それでも「上手に甘えられない」。親しくなればなるほど、自分の気持や希望が言えない、という状況になるのは、スーパーの試食コーナーを通り過ぎて生唾を飲むくらい、ちょっと残念すぎます。

「甘えたら、嫌われるのではないか」「わがままな人だと思われないか」そんな、自分に対する警戒心が邪魔をします。根底には「自分のことが好きじゃないから」という心理が働いているようです。それが、大切な人であればあるほど、上手に甘えられず、気持ちが通じ合わなくなるのは残念すぎます。

そして、上手に甘えられない人ほど、なにか別のことに依存していることもあるようです。甘えと依存は似て非なるものですが、似たようなものに感じて、後ろめたさが勝ってしまうことがあるようです。

「じゃあ、お言葉に甘えて・・・」

悪いことじゃないのに、その一言が言えない。ああ残念。

「甘えたら、拒絶されないかな」
「甘えたら、相手に迷惑がかかるんじゃないか」

甘えるのが上手ではない人は、相手の気持をよく考えてくれる人に多いようです。むしろ社交的で、繊細な芸術家肌で、物事の順番を守ったりしてくれます。けれども、そんな自分が好きではない・・・ あなたを評価してくれる人が、厚意を寄せてくれています。けれども、あなたは「自分にはもったいないのでは?」と、自分を拒否してしまいます。ああ、もったいない。

いま日本では「女性の社会進出」が叫ばれています。どうやら政府の言っていることは、政策上の上っ面・・・という感じがしますが、それはさておき、女性が活躍するシーンが増えていることは事実です。また、夫婦平等に子育てに関わることが求められている時代に、甘え下手のために、夫に不満を募らせる人も少なくありません。

夫が曲がりなりにも子育てに関わろうとしているのに、
「これは私じゃないとダメ」
「女の苦しみを男はわからない」
「オムツ替えまでさせるのは申し訳ない」・・・そう言って、丸抱えしてしまうと、やっぱり疲れてしまいますよね。

それでも、多くの人は「どうして私は上手に甘えられないんだろう」と悩みます。それが苦しくなければ良いのですが、たいていの人は、やはり苦しみの元になります。苦しみの元は、どこにあるのでしょうか。

多くの場合、家族関係の中にそのヒントがあります。

長女であったために、良い子を演じなければならなかった。妹や弟の手前、いろいろなことを我慢しなければならなかった、ということもあるでしょう。

「あなたは、おねいちゃんなんだから、しっかり。我慢しようね」なーんて言われたことはありませんでしたか? 子どもなのに遠慮しなければならなかった、自分のことは後回しにされていたとなると、上手に甘えることが身につかなかったと言うことかも知れません。

また、家の中の大人が仕事や家事に忙しく「親から愛された記憶がない」「大切にされている感じがしなかった」という事情も多いようです。

そして、家の中に異性が存在しなかった場合(特に、幼少期に父親との距離が遠かったり、様々な事情で頻繁に会うことができなかった場合)、男性にどう接してよいのか、どう甘えたら良いのか・・・という葛藤と混乱が生じやすいと言われています。それが、甘えさせ上手のパートナーの導きで、だんだんと回復できれば良いのですが、上述の通り「嫌われるのではないか」という不安があるため、一歩踏み出して甘えさせ上手になることが困難になると、もったいないのも度が過ぎてしまいます。

そうすると、職場や学校でも、誰かに頼って(信頼して)気持ちを休めることができなくなってしまいます。それが積み重なると「生きづらい」感覚が顕著になってきます。なにかに依存している時は気がつかない、または過度な依存の中で、そうした感覚に気がつくこともあります。

生きづらさから解放されるには、自分の性格を変えることが一番の近道ですが、そう簡単に行かないことは、たまさんも知っています。時間がかかります。けれども、自分を変えたいと思ったら、それは思い続けることでチャンスは何度も巡ってくるはずです。まずは、自分に甘えて、甘える自分を許してあげるというのはどうでしょうか。

「今日の仕事はちょっときつい。少し自分を休ませてあげよう」
「今月は頑張って働いたから、自分にご褒美を買ってあげよう」

そんなことから始めてみても良いと思います。

たっぷりの時間をかけて、のんびりとお風呂に入ることも、自分を大事にしていることになるでしょう。早めに歯医者に行って、痛いところをなくしてしまう。そんなことも「自分を大事にしている」ことになると思います。

そのようにして、少しずつ自分の状態を受け入れて行動することが、性格を変えて行く歩みになります。

誰かと一緒にゴハンを食べている時、「それ少しちょうだい。私も食べたい」、「これは食べる気分じゃない。代わりに食べて」という感じだと、言いやすいのではないでしょうか。そのようにして、少しずつ「お願い」と増やしてみると、甘えることの気持ちよさや、逆に、甘えられることの心地よさを、あらゆる人間関係の中でシェアして行くことができます。

「えー、それは嫌だよ!」

時には、そう言われてしまうかもしれません。でも、それに怯まなくて大丈夫です。相手にも断る自由があるように、あなたにも断る自由があります。甘え上手になるということは、嫌なことを背負わず、断り上手になることでもあります。

そのようにして、「これは好きだけど、これはキライ」と自分を表現し、ありのままの自分を見せることができるようになると、対人関係はより深まると考えられます。

甘えたり、甘えられたりを繰り返して、自己開示を繰り返すことで、親密な関係を深めて行くことができるようになります。上手に甘えましょ。ねっ!

東日本大震災から7年

あの東日本大震災から7年が経ちました。

テレビや新聞は盛んに震災の特集を組んでいます。

私は仙台で被災した一人として、今日はまったくテレビも新聞も見ませんでした。ラジオもです。判で押したような「追悼」という言葉。

「黙祷」とツイートする人々のうち、津波で荒れ果て、あらゆる腐臭が漂う壮絶な現場を自分の目で見た人は、どれくらい居たのでしょうか。

たまさんは、できたら忘れたい。

忘れたくても、忘れられないこともあるのです。

一般論ですが、心の中のトラウマは無意識下にあり、自分の目で見たものよりも遥かに大きなものを抱えることすらあります。7年が経って、たまさんは、自分の心の中に気がつかないで放置しているトラウマがあることに気が付きはじめました。それを自覚するまで7年かかったのです。

愛する家族の前では「明日の食料? 大丈夫、なんとかなる」と気丈に振る舞いました。停電による都市で見る満天の星空、それはとても美しいものでした。けれども寒かった。あの日、大地震の直後に雪が降ってきました。しかし、その時に感じた不安は、自分の中に押しとどめたままでした。

そのころのたまさんはマンションに住んでおり、屋上には10トンの飲料水がありましたが、水道管が破裂して、飲料水の確保が容易ではなくなりました。ちょうどたまさんは、お客様から預かったぬいぐるみを洗っている途中で、数体をすすぎ出来なくなりました。このまま水中につけ置くことのリスクを感じていました。

100キロ南では原子力発電所が次々と爆発し、逃げたら最後、永久に戻れなくなるのではないかという思いがよぎり、それをビデオに向かって話している自分の姿を直視することが、この7年間できないでいたのです。

本当は怖くて不安だった。余震がある度に怯える妻を心配させないよう、大丈夫!と言い聞かせたり、1歳になったばかりの長女の前では、楽しく歌を唄ってピエロのようにおどけてみせたりして。

放射能を心配して一目散に逃げるより、余裕な気持ちを見せてゆっくり逃げる。それが安心させることだと自分に言い聞かせていました。

当時1歳だった長女は、呼びかけに対して「はい」と御返事ができるようになっていました。気持ちの受け答えができ始めてきた頃です。大地震のことを、今でも意識的に覚えているのかどうか。本人に聞いてみないとわかりませんが、記憶に残っていないとしても、そこに生きていた限り、記憶の彼方にその情景や社会の混乱を無意識下に刻み込んでいたことでしょう。

意識的な記憶でも、子どもは侮るなかれ、大人よりもはるかに記憶力は良いものです。中には、生まれる前の記憶を持っている子もいるといいます。やがて、その時が来たら、俺は親として、しっかり向き合いたいと思いました。それは、自分にもトラウマがあったんだと自覚したからです。

そして、もう一人、トラウマを抱えた人がいました。

それは俺の奥さまです。今それを話し合う術はなく、自分以外のことは、予測に過ぎませんので、そこは割り引いて読んで下さい。現段階では、たまさんが、そう思っているだけです。

長女が生まれたのは、2010年3月。結婚から10年が経っていました。ようやく授かった子でした。不安にさせないようにと、長女に話しかけたり、歌を唄ったり、俺と同じことしてくれました。その姿を見て、俺は「大丈夫だな、心配ないな」と思っていました。

実際に、そこで何が起きたのかという事実よりも、どのように心が動いたかということは、いろいろなことで見過ごされがちです。例えば、実際に強盗に襲われなくても、強盗に襲われそうなところへ迷い込めば、それと似たような心境になります。強盗に襲われれば、なお深刻ですが、どちらにしても生きた心地がしなかったということになるでしょう。

東日本大震災の翌日、東京電力福島第一原子力発電所が”水素爆発”を起こしました。今では誰も水素爆発だなんて思っていないと思います。仙台は晴れていました。ラジオニュースが盛んに、原子力発電所ゲート付近の線量を読み上げていました。確か570マイクロシーベルトとアナウンスしていたような記憶があります。少し原子力事情に詳しかったたまさんは「メルトダウンした」とすぐに確信しました。

電気をはじめライフラインはすべて停止し、すぐにやらなければならないこともなくなったので、近所の避難所へ食料を求めて出向いたのですが、避難所は人でごった返しており、その雑踏やざわざした声が、なんとなく不安な気持ちを増幅させました。なぜか今、7年前の不安が、たまさんを苦しい気持ちにさせることがあります。なぜなのかという自問自答は置いといて、今日は、そのモヤモヤと向き合うことにしました。

避難所に滞在することは、余震がある度に人々のパニックを目のあたりにすることでした。それで、静かに子供の世話をするためにもマンションの部屋へ戻ったほうが良いと考え、それ以後、避難所に行くことはありませんでした。

そして奥さまは、ニコニコした顔で長女をベランダに連れて行き、レジャーシートを敷いて、長女と一緒にお菓子を食べはじめました。それは、まるでピクニックのようでした。

奥さまも不安な気持ちで一杯だったに違いない。おそらく、ここで再びピクニックをすることは、もう出来ないかもしれない。そんな想いが奥さまによぎり、ベランダにレジャーシートを敷いて「今日で最初で最後だね」という覚悟のようなものがあったのだろうと思います。

授かった小さな命を親として守りたい。その後、たまさんは青森へ一時的に避難し、約1ヶ月後に仙台へ戻りました。ここでは詳細を省略しますが、そしてさらに1年後、次女が生まれたこともあり、様々な想いもあって青森へと移住しました。安心できるはずの移住。事実、今は安心できる生活を送っています。そして、7年経って、無意識下の記憶がじわじわと蘇って、心がざわざわする日が来るとは、まったく思っていませんでした。

トラウマの現れ方は人によって様々です。震災当時から連日うなされて寝る人もいれば、1年後に不調を来たす人もいます。興味深いのは、第二次世界大戦当時、悲惨な沖縄戦や空襲を体験した人々が、現代に老い、認知症を深刻化させるごとに、70年前のトラウマを表出させて苦しんでいるという事実です。

いや、もっと早くから何らかのサインが心身から出ていて気が付かなかったのかもしれません。なにかの病気のきっかけになっていたのかもしれません。トラウマとは、そのようにじわじわと、またある時は、くっきりと現れるようで、決して消えないということです。目で見える意識下では大丈夫!と言い聞かせていても、無意識下には、雰囲気・音・臭いなどを伴って、その時に自分に言い聞かせてきたこととは裏腹なものが、根底に残っているようなのです。

話は逸れますが、冗談やおふざけで、友達やパートナーをたたくような仕草・動作をすることがありますね。実際に叩いていなくても、その動作が繰り返されると「いつか本当にたたかれるかも知れない」と小さな不安が蓄積していきます。

それで、たまさんは、東日本大震災の記憶を、奥さまと話し合って分かち合っていたかな、不安な気持ちを察して、心地よい言葉をかけてあげられたのかな、と思うと、それはよく覚えていないのです。自分が一杯一杯だったこともあるのでしょう。

覚えているのは、ベランダでのピクニックのことだけで、時間とともに奥さまの気持ちを察することからも遠ざかってたような気がします。

寄り添うということは、後からでも出来ますが、それこそ”早め”の対処が必要だったように思います。より深く、他者が理解するには、とても長い時間がかかるからです。今回は自分自身のことなので、ここにこうして書くことで揺らいでいる部分を見つけて行きたいと思います。

なんのためのパートナーなのか、ということです。