東日本大震災から7年

あの東日本大震災から7年が経ちました。

テレビや新聞は盛んに震災の特集を組んでいます。

私は仙台で被災した一人として、今日はまったくテレビも新聞も見ませんでした。ラジオもです。判で押したような「追悼」という言葉。

「黙祷」とツイートする人々のうち、津波で荒れ果て、あらゆる腐臭が漂う壮絶な現場を自分の目で見た人は、どれくらい居たのでしょうか。

たまさんは、できたら忘れたい。

忘れたくても、忘れられないこともあるのです。

一般論ですが、心の中のトラウマは無意識下にあり、自分の目で見たものよりも遥かに大きなものを抱えることすらあります。7年が経って、たまさんは、自分の心の中に気がつかないで放置しているトラウマがあることに気が付きはじめました。それを自覚するまで7年かかったのです。

愛する家族の前では「明日の食料? 大丈夫、なんとかなる」と気丈に振る舞いました。停電による都市で見る満天の星空、それはとても美しいものでした。けれども寒かった。あの日、大地震の直後に雪が降ってきました。しかし、その時に感じた不安は、自分の中に押しとどめたままでした。

そのころのたまさんはマンションに住んでおり、屋上には10トンの飲料水がありましたが、水道管が破裂して、飲料水の確保が容易ではなくなりました。ちょうどたまさんは、お客様から預かったぬいぐるみを洗っている途中で、数体をすすぎ出来なくなりました。このまま水中につけ置くことのリスクを感じていました。

100キロ南では原子力発電所が次々と爆発し、逃げたら最後、永久に戻れなくなるのではないかという思いがよぎり、それをビデオに向かって話している自分の姿を直視することが、この7年間できないでいたのです。

本当は怖くて不安だった。余震がある度に怯える妻を心配させないよう、大丈夫!と言い聞かせたり、1歳になったばかりの長女の前では、楽しく歌を唄ってピエロのようにおどけてみせたりして。

放射能を心配して一目散に逃げるより、余裕な気持ちを見せてゆっくり逃げる。それが安心させることだと自分に言い聞かせていました。

当時1歳だった長女は、呼びかけに対して「はい」と御返事ができるようになっていました。気持ちの受け答えができ始めてきた頃です。大地震のことを、今でも意識的に覚えているのかどうか。本人に聞いてみないとわかりませんが、記憶に残っていないとしても、そこに生きていた限り、記憶の彼方にその情景や社会の混乱を無意識下に刻み込んでいたことでしょう。

意識的な記憶でも、子どもは侮るなかれ、大人よりもはるかに記憶力は良いものです。中には、生まれる前の記憶を持っている子もいるといいます。やがて、その時が来たら、俺は親として、しっかり向き合いたいと思いました。それは、自分にもトラウマがあったんだと自覚したからです。

そして、もう一人、トラウマを抱えた人がいました。

それは俺の奥さまです。今それを話し合う術はなく、自分以外のことは、予測に過ぎませんので、そこは割り引いて読んで下さい。現段階では、たまさんが、そう思っているだけです。

長女が生まれたのは、2010年3月。結婚から10年が経っていました。ようやく授かった子でした。不安にさせないようにと、長女に話しかけたり、歌を唄ったり、俺と同じことしてくれました。その姿を見て、俺は「大丈夫だな、心配ないな」と思っていました。

実際に、そこで何が起きたのかという事実よりも、どのように心が動いたかということは、いろいろなことで見過ごされがちです。例えば、実際に強盗に襲われなくても、強盗に襲われそうなところへ迷い込めば、それと似たような心境になります。強盗に襲われれば、なお深刻ですが、どちらにしても生きた心地がしなかったということになるでしょう。

東日本大震災の翌日、東京電力福島第一原子力発電所が”水素爆発”を起こしました。今では誰も水素爆発だなんて思っていないと思います。仙台は晴れていました。ラジオニュースが盛んに、原子力発電所ゲート付近の線量を読み上げていました。確か570マイクロシーベルトとアナウンスしていたような記憶があります。少し原子力事情に詳しかったたまさんは「メルトダウンした」とすぐに確信しました。

電気をはじめライフラインはすべて停止し、すぐにやらなければならないこともなくなったので、近所の避難所へ食料を求めて出向いたのですが、避難所は人でごった返しており、その雑踏やざわざした声が、なんとなく不安な気持ちを増幅させました。なぜか今、7年前の不安が、たまさんを苦しい気持ちにさせることがあります。なぜなのかという自問自答は置いといて、今日は、そのモヤモヤと向き合うことにしました。

避難所に滞在することは、余震がある度に人々のパニックを目のあたりにすることでした。それで、静かに子供の世話をするためにもマンションの部屋へ戻ったほうが良いと考え、それ以後、避難所に行くことはありませんでした。

そして奥さまは、ニコニコした顔で長女をベランダに連れて行き、レジャーシートを敷いて、長女と一緒にお菓子を食べはじめました。それは、まるでピクニックのようでした。

奥さまも不安な気持ちで一杯だったに違いない。おそらく、ここで再びピクニックをすることは、もう出来ないかもしれない。そんな想いが奥さまによぎり、ベランダにレジャーシートを敷いて「今日で最初で最後だね」という覚悟のようなものがあったのだろうと思います。

授かった小さな命を親として守りたい。その後、たまさんは青森へ一時的に避難し、約1ヶ月後に仙台へ戻りました。ここでは詳細を省略しますが、そしてさらに1年後、次女が生まれたこともあり、様々な想いもあって青森へと移住しました。安心できるはずの移住。事実、今は安心できる生活を送っています。そして、7年経って、無意識下の記憶がじわじわと蘇って、心がざわざわする日が来るとは、まったく思っていませんでした。

トラウマの現れ方は人によって様々です。震災当時から連日うなされて寝る人もいれば、1年後に不調を来たす人もいます。興味深いのは、第二次世界大戦当時、悲惨な沖縄戦や空襲を体験した人々が、現代に老い、認知症を深刻化させるごとに、70年前のトラウマを表出させて苦しんでいるという事実です。

いや、もっと早くから何らかのサインが心身から出ていて気が付かなかったのかもしれません。なにかの病気のきっかけになっていたのかもしれません。トラウマとは、そのようにじわじわと、またある時は、くっきりと現れるようで、決して消えないということです。目で見える意識下では大丈夫!と言い聞かせていても、無意識下には、雰囲気・音・臭いなどを伴って、その時に自分に言い聞かせてきたこととは裏腹なものが、根底に残っているようなのです。

話は逸れますが、冗談やおふざけで、友達やパートナーをたたくような仕草・動作をすることがありますね。実際に叩いていなくても、その動作が繰り返されると「いつか本当にたたかれるかも知れない」と小さな不安が蓄積していきます。

それで、たまさんは、東日本大震災の記憶を、奥さまと話し合って分かち合っていたかな、不安な気持ちを察して、心地よい言葉をかけてあげられたのかな、と思うと、それはよく覚えていないのです。自分が一杯一杯だったこともあるのでしょう。

覚えているのは、ベランダでのピクニックのことだけで、時間とともに奥さまの気持ちを察することからも遠ざかってたような気がします。

寄り添うということは、後からでも出来ますが、それこそ”早め”の対処が必要だったように思います。より深く、他者が理解するには、とても長い時間がかかるからです。今回は自分自身のことなので、ここにこうして書くことで揺らいでいる部分を見つけて行きたいと思います。

なんのためのパートナーなのか、ということです。