甘え上手になりませんか

「ええ、あの、いいです、いいです」

他人の厚意を、つい断ってしまう。上手に甘えられない、というちょっともったいない方のお話です。

「こんな人に甘えたくない!」という変な意地やプライドもあるのでしょう。それに、甘い誘惑を仕掛けてきて何かを要求されるのではないか?という警戒感もありますね。そうした小さな「裏切り」を経験していると、甘えられない、甘えたくない、甘えようと思わない・・・となることがよくあると思います。

ただ、せっかく親しくなった関係なのに、それでも「上手に甘えられない」。親しくなればなるほど、自分の気持や希望が言えない、という状況になるのは、スーパーの試食コーナーを通り過ぎて生唾を飲むくらい、ちょっと残念すぎます。

「甘えたら、嫌われるのではないか」「わがままな人だと思われないか」そんな、自分に対する警戒心が邪魔をします。根底には「自分のことが好きじゃないから」という心理が働いているようです。それが、大切な人であればあるほど、上手に甘えられず、気持ちが通じ合わなくなるのは残念すぎます。

そして、上手に甘えられない人ほど、なにか別のことに依存していることもあるようです。甘えと依存は似て非なるものですが、似たようなものに感じて、後ろめたさが勝ってしまうことがあるようです。

「じゃあ、お言葉に甘えて・・・」

悪いことじゃないのに、その一言が言えない。ああ残念。

「甘えたら、拒絶されないかな」
「甘えたら、相手に迷惑がかかるんじゃないか」

甘えるのが上手ではない人は、相手の気持をよく考えてくれる人に多いようです。むしろ社交的で、繊細な芸術家肌で、物事の順番を守ったりしてくれます。けれども、そんな自分が好きではない・・・ あなたを評価してくれる人が、厚意を寄せてくれています。けれども、あなたは「自分にはもったいないのでは?」と、自分を拒否してしまいます。ああ、もったいない。

いま日本では「女性の社会進出」が叫ばれています。どうやら政府の言っていることは、政策上の上っ面・・・という感じがしますが、それはさておき、女性が活躍するシーンが増えていることは事実です。また、夫婦平等に子育てに関わることが求められている時代に、甘え下手のために、夫に不満を募らせる人も少なくありません。

夫が曲がりなりにも子育てに関わろうとしているのに、
「これは私じゃないとダメ」
「女の苦しみを男はわからない」
「オムツ替えまでさせるのは申し訳ない」・・・そう言って、丸抱えしてしまうと、やっぱり疲れてしまいますよね。

それでも、多くの人は「どうして私は上手に甘えられないんだろう」と悩みます。それが苦しくなければ良いのですが、たいていの人は、やはり苦しみの元になります。苦しみの元は、どこにあるのでしょうか。

多くの場合、家族関係の中にそのヒントがあります。

長女であったために、良い子を演じなければならなかった。妹や弟の手前、いろいろなことを我慢しなければならなかった、ということもあるでしょう。

「あなたは、おねいちゃんなんだから、しっかり。我慢しようね」なーんて言われたことはありませんでしたか? 子どもなのに遠慮しなければならなかった、自分のことは後回しにされていたとなると、上手に甘えることが身につかなかったと言うことかも知れません。

また、家の中の大人が仕事や家事に忙しく「親から愛された記憶がない」「大切にされている感じがしなかった」という事情も多いようです。

そして、家の中に異性が存在しなかった場合(特に、幼少期に父親との距離が遠かったり、様々な事情で頻繁に会うことができなかった場合)、男性にどう接してよいのか、どう甘えたら良いのか・・・という葛藤と混乱が生じやすいと言われています。それが、甘えさせ上手のパートナーの導きで、だんだんと回復できれば良いのですが、上述の通り「嫌われるのではないか」という不安があるため、一歩踏み出して甘えさせ上手になることが困難になると、もったいないのも度が過ぎてしまいます。

そうすると、職場や学校でも、誰かに頼って(信頼して)気持ちを休めることができなくなってしまいます。それが積み重なると「生きづらい」感覚が顕著になってきます。なにかに依存している時は気がつかない、または過度な依存の中で、そうした感覚に気がつくこともあります。

生きづらさから解放されるには、自分の性格を変えることが一番の近道ですが、そう簡単に行かないことは、たまさんも知っています。時間がかかります。けれども、自分を変えたいと思ったら、それは思い続けることでチャンスは何度も巡ってくるはずです。まずは、自分に甘えて、甘える自分を許してあげるというのはどうでしょうか。

「今日の仕事はちょっときつい。少し自分を休ませてあげよう」
「今月は頑張って働いたから、自分にご褒美を買ってあげよう」

そんなことから始めてみても良いと思います。

たっぷりの時間をかけて、のんびりとお風呂に入ることも、自分を大事にしていることになるでしょう。早めに歯医者に行って、痛いところをなくしてしまう。そんなことも「自分を大事にしている」ことになると思います。

そのようにして、少しずつ自分の状態を受け入れて行動することが、性格を変えて行く歩みになります。

誰かと一緒にゴハンを食べている時、「それ少しちょうだい。私も食べたい」、「これは食べる気分じゃない。代わりに食べて」という感じだと、言いやすいのではないでしょうか。そのようにして、少しずつ「お願い」と増やしてみると、甘えることの気持ちよさや、逆に、甘えられることの心地よさを、あらゆる人間関係の中でシェアして行くことができます。

「えー、それは嫌だよ!」

時には、そう言われてしまうかもしれません。でも、それに怯まなくて大丈夫です。相手にも断る自由があるように、あなたにも断る自由があります。甘え上手になるということは、嫌なことを背負わず、断り上手になることでもあります。

そのようにして、「これは好きだけど、これはキライ」と自分を表現し、ありのままの自分を見せることができるようになると、対人関係はより深まると考えられます。

甘えたり、甘えられたりを繰り返して、自己開示を繰り返すことで、親密な関係を深めて行くことができるようになります。上手に甘えましょ。ねっ!

ひとり親?

最近、子供の貧困をめぐるニュースで「ひとり親家庭」という言葉をよく見聞きするようになりました。市役所などに置いてあるリーフレットなどにも同じ言葉を見かけます。

この言葉を巡り、地方議会などで議論がかわされているので、たまさんの考えを書いておこうと思います。従前は「母子家庭」という言葉がよく使われてきましたが、どうやら「父子家庭」が増えてきたこともあってか、それでは具合が悪いということになったのか。父か母のどちらかがいない家庭という意味で「ひとり親」と呼ばれているようですが、問題提起している人たちの考えは「もう片方の親は、まったく無関係なのか?」ということです。

死別して、もう関わることができないのならともかく、離婚や別居であっても、戸籍の中にも親がいる場合、「ひとり親」という表現はふさわしくありません。関わりを持ちたいと思っている親がいるとすれば、その言葉は重たく、すべてを否定されているような気持ちになりますし、両親が存命しているのに、子どもの意志とは無関係に「ひとり親」というレッテルが貼られます。「親」という言葉が混じっている以上、これは否定できない事実です。

この言葉ができた時代背景には、離婚や別居で子供と離れてしまったら、もう子育てには関わらないという、日本独自の文化があるようです。津軽地域ではさらに顕著なことです。

子どもの都合ではなく、親の都合で、両親が一緒に暮らせないのに、片方の親と子の関わりが否定されるのは日本だけです。そこに追い打ちをかけるように「ひとり親」というレッテルを貼り、子どもはそこから逃れることができません。

よく、「子は親を選べない」と言いますが、子は親を選べないだけでなく、親が別居や離婚をするかしないか、という選択肢を自分で選ぶことができません。

ここ2〜3年の間、急速に母子家庭の貧困に関するニュースが増えましたが、子どもの貧困は、そのような「子ども不在」の中で醸成されて行きます。

もう一人いるはずの親は、どこで何をしているのでしょうか。それすらも把握せずに「ひとり親」と締めくくってしまうことは、とても悲しいことです。大人は子どもに何も言い訳ができないはずです。子どもには何も責任はなく、自分ごとで結婚生活の失敗を招いたのですから。

子どもの貧困は、親の貧困であることに間違いはありませんが、親の貧困は「発想の貧困」であり、コミュニケーションの貧困でもあります。

もし本当に一緒に暮らす子どものことを考えるのならば、「もうひとりの親」と、どう関わって行くか。真剣に考える必要があります。「私が嫌だから」と言う理由で、子どもが重荷を背負っていることから、目を背けることは、育児放棄と変わらないのではないでしょうか。

引き離された親たちの怒りの受け皿

「面会交流について相談したいんですが。依頼者が”面会交流で息子を殺めたい”と言っていて、対応に苦慮しています。そういう場合、貴君はどうしていらっしゃるのでしょうか」って、そんな面会交流、無理して取り次ぐ必要もないと思うけど・・・

ブログやSNSで毒を吐きつつ、すっかり復讐心にまみれてしまって抜け出せない方はたくさんいる。子どもを盗まれて許せない!子どもを虐待している母親を許せない!って、いっぱいいっぱいになっている。たいがい、その後は子どもと会えなくなるケースがとても多い。

実際にその人と会ってみると”実行方法”とやらが非常にあやふやで、時折、怒りに満ちて話がどんどんずれて行く。それでも、まあ、一連の出来事だからと受け止めて、全体の話を俯瞰する。

「そういう気持ちだということをわかってほしい」と着地点が見つかってくる。

ちょっとずつ心を開いてくれて、だんだん分かってくるのは、ああ、この人は、思っているだけでなんもしてこなかった人なんだなぁということ。

「母親が虐待しているとして、それでどうしたんです?」
「いえ、なにも。どこにも相談していません」

「警察には相談に行ったことはあるんですか?」
「行っても無駄だと、ネット上にたくさん記事があって」

「子どもに手紙をかいたことはありますか?」
「書いても無駄だと、○○さんが言ってまして」

おいおい、自分の子供のことでしょ。

常に「誰かさんのせいで何も進まないし、できない」という話しぶり。そのくせ「毎日ひまです。死にたい」。自分でできること、あきらめてるんじゃないか。

あきらめているのは他の誰でもないでしょ。

ネット情報にかぶれて意気消沈する気持ちはワカラナイではないけれど、それを何年も続けていると、できないこと・何もしないことへの免罪符みたいになってしまう。その切替の悪さが事情を複雑にしているのではないかと、自分のことを振り返ってみてもよく分かる。

アレだ、ネットサーフィンはいわばドクターショッピングと同じで、都合の良い情報だけを取捨選択してしまう。んなもん、結局、俺は何の役にも立たなかったように感じる。

それと、気が付かないうちに、相当、奥さんの動向や子供の態度のひとつひとつに依存して、反応してしまうのだ。案外、俺なんかも、妻も子どもも別の人間で、別の考えを持っているということが、なんだか怖かったような気もする。

こっちもそういう考えだったから、奥さんも同じように「子供と同化」しちゃったような気もする。ちょっと乱暴だけど、「子どものことが心配です(信頼していません)」「会わせてください、お願いします(期待してます)」ってのは、ぜんぜん相手に響かないことが多いので、多少”誇張”してでも、

「大変だろうけど、あなたに任せるからね(信頼してますから)」
「こっちは好きなようにやらせていただきますね(期待しないから、こっちにも期待しないでね)」と放ったほうが、不思議と同居親の気持ちは動くようである。

こっちが変われば、あっちも変わる(と自分も相手も信頼する)。

もちろん、すべてそのようなケースではないのだけれど、それぐらい「軽く」伝えないと、ただでさえ「重い同居親」はかなり重たくなってしまうようで、なかなか興味深い。

ちなみに、子どもを連れ去った妻(または夫)を「やっつけてやりたい!」と思っている人々が、合理的にやっつけられる方法をコンプリートできた人はいなかった。だんだん「無駄なことだ」と気がついてくれて、いつの間にか、その話は立ち消えた。そうなるまで、お付き合いする他ない。ただ、いつまでも怒りが収まらない方とは良い関係を結べないので、正直、俺も切りたくなる。

夫婦問題は、どっちも加害者になったり被害者になったり、行ったり来たり。最終的には、そのどっちにもならないよ!という心構えができると良いのだろう。ムズカシイけど。(少なくとも今の法制下ではそれしか無い)

それと、なんとかしてあげたいからと、別居親に感情移入しすぎると、冒頭のような妙な問合せになるんだろう。支援する側も強いメンタル持ってないとね、流される。

例えば、面会交流の場面で、別居親が子どもの前で泣き出してしまったとして、支援する側も一緒に泣いてしまうと、子供の不安は2倍にも3倍にもなってしまう。やはり、面会交流支援は、子どもベースの子ども目線で、私情は大人の対応で控えめにしたほうが良いね。

アダルトチルドレンと言う言葉の誤用

ええと、いろいろなお話をお聞きするうちに「私はアダルトチルドレンなんでしょうか」とか「友達から、あなたはアダルトチルドレンみたいだね」と言われたというお話に接することがあります。結論から言うと、アダルトチルドレンとは他人からレッテルを貼られるような言葉ではありませんし、医学用語でもありません。

アダルトチルドレンと言う言葉が日本に入ってきたのは、1990年頃からです。アメリカの精神科医が書いた本を日本の精神科医の齋藤学(さいとうさとる)さんが日本語の本に訳して以来、日本国内に広まったようです。その後、やはり精神科医の信田さよ子さんが「アダルトチルドレン完全理解」と言う本を出されています。これらの本を読めばよく分かるのですが、アダルトチルドレンとは、そう「自覚」するかどうかということがポイントで、他人からどうこう言われることではないということです。

 

そして「子どもみたいな大人」という表現も誤用です。これらはメディアの人々が誤解して伝えていることもあるんでしょう。あらためて、アダルトチルドレンとはどういう事かというと・・・

幼少期に親の顔色を見ながら生活し、意に反した生き方を(直接・間接問わず)強いられ、(結果的に)親から受け入れられず、悲しみを抱いたまま手放せない状態が続き、大人になっても、心の奥底で泣き続けているために、大人になってから、生きているのがなんだかつらい! そんな状況を理解するための助けとなる「自覚」です。生きにくい感覚がないのであれば、無理に自覚する必要はないし、「私は違うかな」と思えば、それで良いのだと思います。

人は多かれ少なかれ「親に理解されなかった」という経験があります。その体験が元で人間関係が上手くいかなくなることがあります。例えば、いつも親から怒鳴られて育った人は、社会に出ても「また怒鳴られるのではないか」と恐れて大事なことを言えなかったり、話し合いを避けてしまうことがあります。しかし、幼少期は、話し合いを避けることで自分が傷つかないようにしてきたり、「自分さえ我慢していれば、パパとママはケンカしたりしない」と背負い込むことで、なんとか「生き延びて」来たという言い方もできます。

衝突を避けてきたり、納得行かないことを背負い込んでしまって、そう生きざるを得なかった人のことを「サバイバー」と言います。そうした苦難や困難を、なにか別のことがきっかけで「水に流す」ことができると良いのですが、自分が最初に接した大人である親の言うこと・やることは、ある意味「絶対的」ですから、子どもは親の言うなりに従わざるを得なかったり、そこから逃れようがないという状況で生き続けなければなりませんでしたので、満たされなかった気持ちが心の奥底に深い傷となって残ってしまうことがあります。

社会に出て、親と同じような話し方を聞くだけで、身構えてしまったり、苦しくなってしまったりして、体調不良になることもあります。そのような「身体症状」が出て、「あれ?なんかおかしいな」と気がつくのです。アパートを借りて一人暮らしを始めたのに「あれ?私は自由に生きていない。やりたい!と思ったことでも、何かが邪魔をしている」と感じ始めて、自分自身の心にモヤモヤしたものがあることに気が付きます。

なんとなく自分が変だということに気が付きますが、たいがいの場合、身体症状があっても何らかの病が見つかることはありません。精神科や心療内科に行ってみても、それほど深刻な状況ではないことが分かり、ソーシャルワーカーや心理カウンセラーのところで、「アダルトチルドレンじゃないかしらね」と言われてホッとします。自分は何らかの病気ではなかったという安堵感と、ずっと心の奥底に秘めていたものがあったんだ、という気づきによってホッとするのです。

アダルトチルドレンとは、「大人になっても、心の奥底で泣いている幼いころの私」という感じだと思います。だから、他人は与り知らないことだし、誰かから「あんたはアダルトチルドレンだ!」と言われる筋合いにはないし、「私はアダルトチルドレンです」と表明するものでもないのではないかと思います。それ故に「自覚」があるかどうか、ということがポイントです。

全国各地にアダルトチルドレンが集まる「自助グループ」というものがあります。そこで、心の中に秘めていた自分のことについて、各々体験を語ります。自助グループでは、名前を名乗る必要がなく「アノニマス(無名であること)」が重視されます。いま大人の自分と、さびしい気持ちを味わって心のなかでまだ泣いている子どもの自分。それらを分けるという配慮もあるのでしょう。

だんだんと、その「自覚」が大きくなり、たくさんのことを思い出します。時には、悔しかった子供の頃の自分と一緒になって怒り狂うこともあるでしょう。そうして少しずつ、子どもの頃の自分を慰め、励まし、手を離して行きます。それが自助グループで体験できることのひとつです。それなので、インナーチャイルド(心の中の泣いている子供時代の自分)がいつの間にか成長し、「もう私は成長したよ! 泣いていないよ!」という日が来るかも知れません。その日がいつくるのか、あるいはもう来てしまったのか、自分自身でもはっきりとわからないものです。というわけで、繰り返しになりますが、アダルトチルドレンという言葉は、誰かから定義付け・レッテル貼りされるものではありません。

別居親だヨ!全員集合!

家族問題を抱える大人のための長期イベント!と言うか長期宿泊プランです

離婚や別居の問題を抱えている。子どもに会えない。配偶者と話し合いができない。このまま年を越すのはなんだか忍びない。家族っていったいなんなんでしょう。少しの間、みんな家族のように過ごせたら良いなと思います。

血がつながっているから家族?
血がつながっていなければ家族じゃない?

たまさんは「おかえりなさい」とお迎えします。
「いってらっしゃい」と言って見送ります。
晩御飯くらいみんなで食べましょう。

近所に温泉がたくさんあります。一緒に行きましょう。
(たまさんちにも内風呂もありますが)
サラサラの雪山へスキーに行きませんか?

”家族”みんなで問題に向き合って話してみませんか。
ちょっと視点を変えると幸せなことがたくさんあるかも。

シェアハウスみたいなものだと思ってください。初めて参加の方も大丈夫。お世話するホストが常駐しています!

参加方法(今までと違います)

まずこちらのリンクからAIRBNBにご登録ください。
初回の旅行から3,500円使えるクーポンが発行されます。
www.airbnb.jp/c/900bf5
メールアドレスや電話番号などの登録が必要です。

次に「別居親だよ!全員集合」年越しプラン」8,200円を予約してください。
3,500円のクーポン適用をお忘れなく。
実質4,700円で参加できます。
https://abnb.me/EVmg/psuFbyR7FI

実際に到着する日に関係なく12/27〜1/4まで空いている日を1泊予約してください。(1泊予約ですが、期間内ならいつ到着・出発でも構いません。何泊してもOK)
*電話予約の方は8,200円になります。

各自負担金

参加費4700円(AIRBNB経由で決済)これで8泊OK!
ただしAIRBNBからサービス料10$(1000円)程度が課金されます
グループワーク午前・午後2時間ずつ 各1000円ずつ
(人が居残っている時のみ)

食費(買い物した分を当日の参加者で頭割り)
酒代(各自持ち込みOK。冷蔵庫にはビールのみ用意)
温泉送迎500円(温泉代込み、タオル石鹸つき)約2時間
大鰐温泉スキー場ガイド送迎(2000円4人まで)

スキー・スノボしたい人

ボード・ウエアなどレンタル代金
リフト代金 いちばん安価な「今から5時間券2300円(土日祝は2600円)」で十分遊べます。
http://www.owani-ski.com/w/pg254.html

スキースクールで学びたい人
http://www.oowani-ss.com/
10:00-12:00 13:00-15:00
半日で2800円〜

日課

朝晩の雪かき
(天気予報を見ながら。とても汗をかくのでそのまま温泉に行くことが多いです) ダイエットに最適。ストレッチご指導します。

その他

地吹雪ツアー(温泉のついでにお連れします)
個人相談 1時間 2500円
食事のみの提供 500〜700円

AIRBNB登録できない友達も同行する場合
友達1泊1000円+参加費4700円
その他の地域ガイド1時間2000円(燃油代込み)

◆すでにAIRBNB登録済みの人でクーポンが利用できない人
3000円を宿泊完了後に払戻します

◆期間の前後2−3日滞在したい人
1泊2000円(朝飯付)

参考

津軽フリーパス1日2000円
http://www.tsugarunavi.jp/freepass/
津軽地域のJR、弘南鉄道・循環バス、津軽鉄道等が乗り放題。
五所川原へ行くも良し、黒石市のこみせ通りに行くも良し。
津軽鉄道で太宰治の里に行くも良し。
(ただしストーブ列車に乗れません)

ストーブ列車

◆弘前(弘前駅)と平川(平賀駅)の移動手段
弘南鉄道 弘南線 370円(5ブロック)
(注)終電は弘前発21:30です。
JRダイヤの関係で数分間に合わない方は、早めにたまさんに電話してください。魔法をかけます。

◆皆様から頂いたお代は
来春の「ぬこのひたい親子農園」の整備費として使用します

お問合わせは 050−3561−3310 たまさん直通

年末年始、煮詰まっている皆さんへ

煮詰まっている皆さんへ

調停が始まって、こん詰まっているんですか?
相手の書面にパーフェクトに反論するの? 調停って話し合いですよー。ありとあらゆる主張をして既に泥仕合になっていませんか。知らぬ間にガソリンを撒いていませんか。

それでも書きたいですか?
いつか子どもが読むことになるかもしれません。ならば将来、子どもが読むことを想定して、わかり易い言葉で、子どもや配偶者へのメッセージに書き換えてみん? 丸ゴシック文字で書いたって誰も文句言わないよ。自分で絵本を作って出してもいいんだし。徹底的な反論は「そういう人です」って弾劾証拠に使われちゃうぞ!

事情が複雑?
複雑なまんまにしているのは、たぶん自分のこだわりのせい。事情は案外単純。ってか、単純な話にしていかないと、複雑過ぎる事情の応酬になってまとまる話もまとまらない。
諸事情はともかく、難しい書面を出さない人ほど子どもと会えるようになっているってことない? 幸か不幸か、それが現実。まずは子どもと会えることを優先に。

ヒマですか?
やれることは沢山ありますよ! 家族の写真アルバムの整理、何日もかかりますよ! いつか子どもに見せるんです。親の愛を伝え受け継ぐために。
俺は10万枚の写真があるので、4年たってもまだ整理が終わっていません。子どもが戻ってきたら整理するヒマなんてなくなるから。
子供の服、小さくなっても時々洗ってアイロンがけ。丁寧にとっておくと、子どもは喜ぶもんだよ。保育園の制作物とか、一生の宝ものだからね。段ボール箱に詰め込んだままというのはもったいない。

クリぼっち?
クリスマスってキリストの誕生を祝う日です! エッチしたりケーキやケンタッキーを食べる日じゃありませんよ! (山下達郎と竹内まりや夫妻の功罪は大きいw)

年末年始ひとりで淋しい?
たまさんちに来ていいですよ。12月27日から1月4日まで、ひとり5000円で居ていいです。定員8名です。米と味噌かついでおいで!

金が無い?
年末年始いくらでも仕事があるよ。みんな休みたいんだから。

好きな人ができた?
いいじゃない♡ 重婚してはダメー!ってだけで、二人以上愛してはイクナイって法律はないよ。たまさん今なら5人くらいまでOKだよw

休みの日にすることがない?
手紙書きましょうよ。子どもに、配偶者に。出さなくても手紙は書ける。いざ出そうってなった時、すぐには書けないもの。じっくり言葉を選んで、素直に。酒瓶のアップより、いいね!いっぱい付くよ♡

子供に会えていない?
会えない同士で嘆き節をぶつけ合っても埒が明かない。会えている人からたくさんヒントをもらおう。配偶者のせいにしても子供には会えないんだから。日本はそういう残念な社会。割り切ろう。

そんな社会が嫌だ?
俺も嫌だが、嫌がっていても変わらない。誰かが変えてくれるわけでもない。社会への批判は子供と会えるようになってからでいい。自分の生活を一番に。
俺が私が世の中を変えてやるんだ!という人ほど、なぜか子どもに会えない。それは正しいかどうかというより教訓だ。社会にガツガツ噛み付いている人に配偶者は心を開かないってことは、よくよく考えれば分かる。
相手に協力を求め、相手弁にも協力を求め、社会に対抗するのではなく、味方を増やして(そうだ駒崎のごとくw)子供と会えるようになろう。

住所がわからない?
自分の家あてに手紙を書けば、子どもに転送されるようになってるんじゃないのかな? 手紙を受け取ったかどうかなんて確かめなくていいよ。ポストに投函したら、あとは天に任せて手を離すんだ。手を離すってのが大事だと思う。

未来が見えない?
新年は「こうなった」と願いごとを、壮大に現実に起きたごとく書いてみない?「こうなりますように」ではなく「子どもが戻ってきて、毎日ごはんを一緒に食べている。今日は動物園へ行ってシロクマを見てきた」とか具体的に。未来のシナリオを描くのってのは想像力がいる。それができると不思議と一個ずつ叶うんだ。嘘だと思うなら、まずは書いてみーよ。
ただ、案外それって簡単そうで難しいんだ。なかなか書けないってのは、なかなか実現しにくいってことにもなる。

「元旦にババァが急死した。新年早々、喪服を着て妻の実家へ行くことになったが、妻が取り乱して大騒ぎ。警察が呼ばれたが意外な形で子供との再会が叶った。ショックのあまりジジィも倒れ、急きょ妻が喪主となった。そして子どもたちの面倒は俺が見ることになったのだ。親戚たちは怪訝そうに妻を遠い目で見ており、ジジィの食事と洗濯で、妻は家政婦のごとくてんやわんやになり、葬儀終了後とうとう音を上げ、子供たちは俺に懐くあまり”お父さんの家に行きたい”と泣き出した・・・」とか。 楽しいだろw

叶ったら神様に「ありがとう」。
後になって「そうなると”思ってた”」、「ほら、”そうなった”」と言うのは実に見苦しい。必ずそうなる!そうする!と言う想いは、明確な言葉にすることから始まる。未来は自分で作る。作れる。誰にも見せるなよ〜 デス・ノートとおんなじだからな!

被虐されてる?
中傷されたとか、暴言はかれたとか、もうよろしいわ。そんなことわざわざ書いて毒吐きしても、良い気持ちになる人は一人も居ない。そうするくらいなら未来を創造してみてよ!
過去の恨み節あれこれを書面にして裁判所に出しても効果ないって、もう分かったっしょ。調停委員も裁判官も読みたくないんだから。
毒吐きされると、された人まで毒される。それって本当に中傷や暴言? 虚偽DVみたいになってない? たわいのないことで被虐感を溜め込んでない? そう思い込んだり、そう感じてしまうのは自分のせいだよ。スルーできないところに難がある。依存度の高さを示す良い物差しになるけどね。

被害者?加害者?
って思っているうちは、加害性のある被害者だし、被害感や被虐感のある加害者だと俺は思うし、そうだとしたら家族再統合は難しいってことになるよ。

配偶者は人格障害者?
だとしたら、戻って来たとしても大変だよ? でも、もし本当に人格障害を患っているとしても、7〜8年後に被害感や被虐感がおちついて、配偶者が戻ってきたという事例が今年何件もあったよ。Google先生と勉強すれば「安心させるのが先決」ってことが分かるよ。

妬まれている?
いいことだ(*´▽`*)進歩してれば妬まれる。妬んでいる人なんぞどんどん置いて行けばいい。

思い込んでない?
相手は「DVを受けた」だの、「子が虐待された」だのと言うものの、虚偽というより「そう思い込んでいる」こともある。しかし、さて自分の胸に手をおいてみると、かなりいろいろな思い込みをしていることにも気がつく。

クリスマスは家族や恋人で過ごすもの。
年末年始は家族そろって神社へ行くもの。
正月は雑煮を食いお年玉をあげる・もらう。
調停は書面でやらねばならない。
願いは叶わないから祈るだけ無駄。
自分は被害者。
自分は誹謗中傷されて攻撃されている。
配偶者以外、愛せない(愛してはいけない)。

どんだけ洗脳されてんの?って話だよ。
まずはそこから解放だ。
最後に
2018年は「嫁」という言い方やめません?

「嫁」なんつーのは1947年(昭和22年)の戸籍法改正以来、存在しないんだ。「婿」もいないし「入籍」ってことも今やありえない。

ついでにいうと「嫁、婿、舅、姑、義父、義母、義祖父、義祖母、義兄、義弟、義姉、義妹、実家、婚家、本家、分家、家長、家戸籍、嫁ぐ、嫁になる、嫁入り、嫁にやる、嫁にだす、嫁をもらう、婿入り、婿になる、婿にやる、婿にだす、婚家の籍に入る」というのも法律的に存在しない。

すでに存在しない亡霊との関係がおかしな事になっていませんか?

たまさん家族相談 年末年始 特別相談電話

2017年12月29日〜2018年1月2日

050−3561−3310(留守番電話)

  1. 留守番電話にお名前と、どんなお話か簡単にお聞かせください(24時間いつでもOK)
  2. 順番に、こちらから別の番号で折り返しお電話します

産後うつ、産後クライシス

産後うつ、産後クライシス、そんな言葉がこの数年間のうちに市民権を得るようになりました。そうした症状や状態は、昔からあったものなのでしょうけれど、学問的に研究が盛んになり、科学的に解明しようという流れが加速しています。時には「マタニティーブルー」という言葉が歴史の先駆けだったのかもしれません。

マタニティーブルー、産後うつ、それらに伴うクライシス(危機)、どれも根底はつながっていて、分けて論じる必要が無いように、たまさんは思います。基本的には、女性の体内でのホルモンバランスが変化し、涙もろくなったり不安になったりという内的要因。そして、女性の置かれた環境に基づく外的要因。

外的要因には、家のしきたり(我が家では代々、このような子育てをしてきた)によるストレスやプレッシャーが挙げられます。そして、女性自身の中にも母性幻想(母親なのだから、このようにあるべきだ)が肥大すると、「私は子育てなんかできるんだろうか」「私は母親としてやっていけるだろうか」と言う不安が増大します。

「心配事の9割は実際に起きない」のではありますが、情報化社会、つまりネットを通じてずるずると出てくる「ああすべき、こうすべき」「理想の母親」などの分析、一般論、理想論に多く接すれば接するほど「うまくできないのではないか」と言う心配事が増えることになりかねません。

最も害悪なのはテレビでしょう。テレビで放送されたことが「すべて正しい」と思いこんでいる人々にとって、(美談化された)ママの体験談とか、(ドラマチックに演出された)再現ビデオなどを見るにつけ、なんか自分がちっぽけでつまらない存在に思えてしまうのです。

自分には自分の生き方、考え方があって、「足りない」「知りたい」と思うことは身近な人々に救いを求めても良いのに、今やなんでもスマホで連絡する時代。生活リズムも皆ばらばらで、「今から電話しても良い?」なんてメールでたずねてしまう時代。人間関係の希薄化、形骸化もまた、産前産後のトラブル諸々にストレスを加速させているように、たまさんには見えます。

そんな状況や原因追求はさておき、たまさんちでは毎週土曜日、午前10時から「産後うつミーティング」を開いています。

参加できる方は、「産前産後で困りごとのある人」です。

産後のうつ状態で自分を見失いそうになっている本人、本人に振り回されている(?)配偶者、あるいはその両親(赤ちゃんから見た、祖父母となる人)、そうした方々をお世話する仕事に関わっている方(助産師、看護師、介護士の方など)が対象です。

ミーティングは、ミーティング・ハンドブックを元に進行します。

また、実名を明かす必要はありませんし、無理に話す必要もありません。話す順番が回って来た時に話したいことがあるか、話す準備ができたら手をあげてみてください。

話の途中に献金袋が回ってきますので、無理のない範囲で会場の維持にご協力ください。

お茶やコーヒー、お菓子を用意してお待ちしています。
お時間がありましたら、一緒にお昼ごはんを食べましょう。

日時 毎週土曜日 午前10時〜12時 ミーティング、その後ランチ会
場所 たまさんち(みさと記念館)シェアダイニング
お問い合わせはコメント欄、もしくはこちらから
遠隔地の方は、前泊することもできます。

【グループの来歴】
ミーティングは2014年から始まりました。当初はFacebook内のコミュニティで始まりましたが、やがてTwitterで仲間を探し求め合うようになりました。徐々に参加される方の範囲が広くなり、定期的に集まることが難しい人もいて一時期、Skypeによるグループミーティングをしていたこともありましたが、2017年から「顔を突き合わせて相手の話に傾聴する」という従来のスタイルに戻りました。

【提言】孫に会えないジジババの会、立ち上げを!

親子断絶の憂き目にあっている当事者さんは、けっこう実家住まいの人が多くジジババも孫に会えない悲しみで途方に暮れている人もいるようです。俺はあえて言いたい。実家を離れて、まず自分が自立した方が良い。

それと、孫に会いたいと言う気持ちは、当事者にとって二重の苦しみになっている事が多い。「あなたは子どもに会えなくて可哀想だけど、私たちも孫に会いたい」というもの。当事者さんもまた「孫に会わせることが親孝行」みたいになっている事もある。心情的には理解できる一方で、そのこだわりが問題解決を遅らせてしまう事もある。その根底に「孫はうちの家督だから」という家制度の考え方が引きづられている。

そして、ジジババが息子娘と「一丸となって」法廷闘争する姿を見て、去った配偶者もまた強い嫌悪感を抱いてしまうのだ。これではいつまでたっても家制度の亡霊になってしまって、孫との再会どころか親子の再会に結びつかないのである。

なので、孫に会えないと言う問題こそ、ジジババ同士が一丸となって社会問題や社会運動にしてほしいと俺は考える。

もっと辛辣に言うと、当事者世代の「親世代」が作り上げた社会の残渣が、この理不尽な世の中なのだ。だから「息子・娘が可哀想だ、気の毒だ」と思うなら、ジジババが独立した社会運動を醸成してくれると「当事者世代」は助かる。ジジババには、「社会に対してやり残したこと」として立ち上がってほしい。

 

お手紙の添削

構成作家として放送台本を手がけていたたまさんが、お手紙の添削をします。

基本方針

料金 1回 3000円 〜

主に、Google Documentを利用しますので、遠近関わらずご利用になれます。

直接面談の場合は、2時間ごとにプラス2000円でお願いします。

お問い合わせはコメント欄、またはこちらまで。

お話します 家族と親子をめぐる日本の諸問題

  • 親子引き離しの実態と世界の流れ
    日時 2018年3月20日 10:00〜
    福島県福島市 赤十字病院 会議室 定員120名
    入場料(資料代)500円
    基調講演 (行政書士・ライフプランナー)
    現場報告 佐久間博秀(家族相談員)


  • 子どもの引渡し強制執行と子どもが受ける恐怖、トラウマ
    日時 2018年3月26日 13:00〜
    盛岡市民会館 小ホール 定員300名
    入場料(資料代)500円
    基調講演 時永松男(臨床心理士)
    現場報告 佐久間博秀(家族相談員)


  • 離れて暮らす子どもに対してできること
    日時 2018年4月8日 18:00〜
    弘前文化センター 大会議室B 定員160名
    入場料(資料代)700円
    講演 佐久間博秀


 

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  • 希望日時
  • 希望地(会場はご用意ください)
  • ご予算(交通費・宿泊費の有無)
  • 対象年齢層
  • 広報の有無(広報の原稿の確認できることの確認)
  • 中止を含めご連絡を頂けることの確認