ええと、いろいろなお話をお聞きするうちに「私はアダルトチルドレンなんでしょうか」とか「友達から、あなたはアダルトチルドレンみたいだね」と言われたというお話に接することがあります。結論から言うと、アダルトチルドレンとは他人からレッテルを貼られるような言葉ではありませんし、医学用語でもありません。
アダルトチルドレンと言う言葉が日本に入ってきたのは、1990年頃からです。アメリカの精神科医が書いた本を日本の精神科医の齋藤学(さいとうさとる)さんが日本語の本に訳して以来、日本国内に広まったようです。その後、やはり精神科医の信田さよ子さんが「アダルトチルドレン完全理解」と言う本を出されています。これらの本を読めばよく分かるのですが、アダルトチルドレンとは、そう「自覚」するかどうかということがポイントで、他人からどうこう言われることではないということです。
そして「子どもみたいな大人」という表現も誤用です。これらはメディアの人々が誤解して伝えていることもあるんでしょう。あらためて、アダルトチルドレンとはどういう事かというと・・・
幼少期に親の顔色を見ながら生活し、意に反した生き方を(直接・間接問わず)強いられ、(結果的に)親から受け入れられず、悲しみを抱いたまま手放せない状態が続き、大人になっても、心の奥底で泣き続けているために、大人になってから、生きているのがなんだかつらい! そんな状況を理解するための助けとなる「自覚」です。生きにくい感覚がないのであれば、無理に自覚する必要はないし、「私は違うかな」と思えば、それで良いのだと思います。
人は多かれ少なかれ「親に理解されなかった」という経験があります。その体験が元で人間関係が上手くいかなくなることがあります。例えば、いつも親から怒鳴られて育った人は、社会に出ても「また怒鳴られるのではないか」と恐れて大事なことを言えなかったり、話し合いを避けてしまうことがあります。しかし、幼少期は、話し合いを避けることで自分が傷つかないようにしてきたり、「自分さえ我慢していれば、パパとママはケンカしたりしない」と背負い込むことで、なんとか「生き延びて」来たという言い方もできます。
衝突を避けてきたり、納得行かないことを背負い込んでしまって、そう生きざるを得なかった人のことを「サバイバー」と言います。そうした苦難や困難を、なにか別のことがきっかけで「水に流す」ことができると良いのですが、自分が最初に接した大人である親の言うこと・やることは、ある意味「絶対的」ですから、子どもは親の言うなりに従わざるを得なかったり、そこから逃れようがないという状況で生き続けなければなりませんでしたので、満たされなかった気持ちが心の奥底に深い傷となって残ってしまうことがあります。
社会に出て、親と同じような話し方を聞くだけで、身構えてしまったり、苦しくなってしまったりして、体調不良になることもあります。そのような「身体症状」が出て、「あれ?なんかおかしいな」と気がつくのです。アパートを借りて一人暮らしを始めたのに「あれ?私は自由に生きていない。やりたい!と思ったことでも、何かが邪魔をしている」と感じ始めて、自分自身の心にモヤモヤしたものがあることに気が付きます。
なんとなく自分が変だということに気が付きますが、たいがいの場合、身体症状があっても何らかの病が見つかることはありません。精神科や心療内科に行ってみても、それほど深刻な状況ではないことが分かり、ソーシャルワーカーや心理カウンセラーのところで、「アダルトチルドレンじゃないかしらね」と言われてホッとします。自分は何らかの病気ではなかったという安堵感と、ずっと心の奥底に秘めていたものがあったんだ、という気づきによってホッとするのです。
アダルトチルドレンとは、「大人になっても、心の奥底で泣いている幼いころの私」という感じだと思います。だから、他人は与り知らないことだし、誰かから「あんたはアダルトチルドレンだ!」と言われる筋合いにはないし、「私はアダルトチルドレンです」と表明するものでもないのではないかと思います。それ故に「自覚」があるかどうか、ということがポイントです。
全国各地にアダルトチルドレンが集まる「自助グループ」というものがあります。そこで、心の中に秘めていた自分のことについて、各々体験を語ります。自助グループでは、名前を名乗る必要がなく「アノニマス(無名であること)」が重視されます。いま大人の自分と、さびしい気持ちを味わって心のなかでまだ泣いている子どもの自分。それらを分けるという配慮もあるのでしょう。
だんだんと、その「自覚」が大きくなり、たくさんのことを思い出します。時には、悔しかった子供の頃の自分と一緒になって怒り狂うこともあるでしょう。そうして少しずつ、子どもの頃の自分を慰め、励まし、手を離して行きます。それが自助グループで体験できることのひとつです。それなので、インナーチャイルド(心の中の泣いている子供時代の自分)がいつの間にか成長し、「もう私は成長したよ! 泣いていないよ!」という日が来るかも知れません。その日がいつくるのか、あるいはもう来てしまったのか、自分自身でもはっきりとわからないものです。というわけで、繰り返しになりますが、アダルトチルドレンという言葉は、誰かから定義付け・レッテル貼りされるものではありません。